[あさが来た]実際のあさちゃんは?新次郎さんってどんな人?
あさが来たのモデルになっている広岡浅子について色々とおべんきょうしているうちに、色んな事がわかってきて面白いです。
広岡浅子さんは、わかりやすく言うと現在の大同生命を作った人です。
広岡浅子の実家である三井家は、江戸時代にはすでに、京・大坂・江戸に店を構える「日本最大の企業グループ」でした。
まわりが心配するくらいのお転婆娘だった浅子が、後に「三井十余家の人物中で最も秀でた人」と呼ばれるほどにまでなったお話が「あさが来た」です。
広岡浅子さんがどんだけおてんばだったかと言いますと…。
十二三の時、髪をこわすのでよくお母さんから叱られた。
小さいアサ子さんはどうしたらお母さんの小言を逃れることができるかと熟熟考えた末、よいことを思いついた。
髪があればこそお母さんの小言も出るわけと、夜ひそかに結いたての髪をぶっつりと根本から切って、枕元においたまま、ぐっすりと寝てしまった。
あくる朝それを乳母が見つけて大騒ぎになった。けれども浅子は一向平気でニコニコしている。仕方がないので、その日から付髷(つけまげ)をしたが、お転婆をするので、今度は髪がこわれるどころか、ころころと落ちた。
「一人一評——広岡浅子」(『婦人週報』二巻九号、一九一六年)
こんぐらいおてんばだったみたいです(笑)
朝ドラのあさちゃんもまんざらやり過ぎでもなんでも無いみたい。
かなり良い所のお嬢様がこんなんだからまわりの人達は手を焼いたでしょうね(笑)
加野屋さんってどんな家?
一八六五(慶応元)年、十七歳になった浅子は、かねてからの約束どおり、加島屋の当主、第八代広岡久右衛門正饒の次男である広岡信五郎(新次郎さんですね)のもとに嫁ぎます。
浅子が嫁いだ時、信五郎はすでに加島屋の分家(五兵衛家)の跡継ぎ(養子)となっていましたが、分家といっても、本家(久右衛門家)とともに加島屋の商いを支える大きな柱であり、当時の長者番付に掲載されるほどの大きな商家でした。
これが当時の長者番付だそうです。
よく見ると、聞いた事のある名前も並んでいますね。
ちなみに山王寺屋さんこと、天王寺屋さんは、加島屋さんよりちょっとランクが下だったそうです。(つっても金持ちですけどねw)
大金持ちが金持ちに嫁ぐってすごいなぁ…!この時代の金持ちってこういう感じなんですね…!
あさちゃんが加野屋(加島屋)に嫁に行った時の印象。
「業務は番頭や手代任せで主人はのんびりしたもの。永久に家業が繁盛するか疑わしい。何か起きれば、自分が何とかしなければ」
広岡浅子「七十になる迄」(『一週一信』、一九一八年)
※写真はイメージだす。
あさちゃん、この店やばいと思ったみたいです(笑)
今回の朝ドラはなかなか忠実に描かれている様です。
新次郎さんはどんな人だった?
夫・信五郎は、おっとりして上品、謡が大好きな典型的な大店の御曹司。しかし彼には、浅子のやりたいことを受け入れるだけの包容力があった。
後に、信五郎と浅子の関係がよくわかるエピソードが紹介されている。
良人の信五郎氏
夫の信五郎氏は、どんな方だろうというに、これは至極温和な性質で、浅子とは全く反対の人物。しかし家庭は和気洋々として一糸乱れずである。が、加島屋の興廃得喪に関わることは、すべて浅子の裁断を待たざるべからざる仕組みなので、従って浅子の勢力は飛ぶ鳥も落ちる次第、然るに浅子はかつて夫に対して他の指一つ指す能はざる程に慎重なれども、もし意見の投合せざることもあれば、毫も退譲せずたまには大気焔を吹きかけるので、信五郎氏はそんな場合に至ると「いや、どうしまして、先生先生」と揶揄半分にじっと黙ってしまうのである。
「本邦実業界の女傑——広岡浅子(四)」(『実業之日本』第七巻四号、一九〇四年)
まんまですねwwヤバいときは「先生!!!先生!!」って機嫌取るとかやりそうですw
おもしろいな〜。玉木宏さん演じる新次郎さんそのものなんですね(笑)
加野屋から山王路屋さん家までどのぐらいの距離?
おねえちゃんの嫁いだ山王寺屋さんへあさちゃんが出かける時、朝早くに出かけて帰りが夕方だったから、どのぐらいかかるのかと思って調べたらめっちゃ近所でした。
徒歩15分(笑)
天王寺屋の屋敷があったのは、船場の今橋二丁目付近。
浅子が住んだ江戸堀の加島屋新宅からは徒歩で一五分ほどの距離でした。
ちなみにその天王寺屋旧宅の一部が、今も残されています。京都府宇治市の松殿山荘って所らしいです。ちょっと言ってみたいですね♪
実在の人物がモデルの朝ドラは大好物です!
すごくワクワクします!
また何かわかれば書いてみようと思っています♪
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